菓子パン
クリームパンを買つたつもりだつたのに、ジャムパンだつた。といふことに、全部食べ終はるまで氣づかなかつた。幸せ者か、ただの馬鹿か。
やる、やらないの境界
「今日は寒くてやる氣が出ない」と言ひ訣する人がゐる(もちろん私のことだ)。こんな風に「寒い寒い」と文句を言つて仕事をしない人を、例へば暖かい部屋に連れて行けば仕事をするのかといふと、そんなことはない。多分「暖かくて眠くてはかどらない」とか言ひ出すだけだ(もちろん私のことだ)。
「何かをやらうとする意欲」と「やりたくない言ひ訣」とが戦つてゐて、このふたつの葛藤の結果、「意欲」が勝てば仕事をする、「言ひ訣」が勝てば仕事をしない、といふ考へかたが(私の中に)ある。さういふステレオタイプな考へに(私が)毒されてゐるやうな氣がする。
実際には、「やりたくない言ひ訣」といふのは、後から後から無盡蔵に湧き出てくるものなので、もしも「意欲」と「言ひ訣」が戦つてゐるのだとしたら、「意欲」に勝ち目はない。頑張つて「言ひ訣」を片端から潰しても、事態はまつたく改善されない。
「言ひ訣」を潰さうとしてはいけない。それよりも「意欲」を鼓舞すべきだ。
……さうかあ、「意欲」かあ……(遠い目)。
眠い
眠いので何も考へられない、といふ状態が、ここ數日、續いてゐる。考へられないので、仕事が長引き、今日も殘業、より一層寢不足に拍車がかかる。惡循環。「何とかしなければ」といふ最後の良心すらも、眠氣に押し流されさう……。
「注」と「註」
註7:注釈を一文字で表すのに「注」と「註」のどちらを使うか、これも悩んだ箇所です。辞書を引くとどちらでもよいらしく、ということはあとは私がどちらが好きか、という問題になるのですが、結局「専用工具が使える場合はそちらを使う」という原則にのっとり、註を使うことにしました。
さう言はれてみると、私も前から氣になつてゐたやうな氣がします。ちよつと調べてみる。
- そもそもの話としては、「註」が正しいやうです。
- 一字のみの「註」に限らず、「註釋(注釈)」、「註記(注記)」、「註文(注文)」などの熟語でも、本來は「註」が正しいやうです。
- 「註」は「書き記す」とかの意味。「注」は「そそぐ」とかの意味(注意、注力など)。
- 「註」の字が、當用漢字(常用漢字)に採用されなかつたために、本來「註」と書かねばならないところを、「注」で代用することが正式(?)に認められたやうです(「註」の利用が禁止された訣ではない)。
- 一字のみのとき常用漢字にない字「註」を使ひ、「注釈」のときには常用漢字で書く、といふのは、微妙に統一感がないやうな氣がするけど、現代の國語教育の範圍では、「正しい」表記。
漢字の細かな使ひ分けに關しては、當用漢字(常用漢字)以降の辭書は、ほとんど、あてにならない。大抵の辭書で、「注釈」と「註釈」を同列に扱つてゐるけど、これが、當用漢字(常用漢字)のせゐで突然同列になつたものなのか、それとも當用漢字(常用漢字)以前から同義語として扱はれてゐたものなのか、明確に判別することができない。
なにかうまい方法はないかなあ……。
便所の紙
うんちの後、尻を拭いても、紙が汚れてゐなかつた。若い頃に比べて、かういふことが増えたやうに思ふ。