やる、やらないの境界

apkz2006-01-30


「今日は寒くてやる氣が出ない」と言ひ訣する人がゐる(もちろん私のことだ)。こんな風に「寒い寒い」と文句を言つて仕事をしない人を、例へば暖かい部屋に連れて行けば仕事をするのかといふと、そんなことはない。多分「暖かくて眠くてはかどらない」とか言ひ出すだけだ(もちろん私のことだ)。

「何かをやらうとする意欲」と「やりたくない言ひ訣」とが戦つてゐて、このふたつの葛藤の結果、「意欲」が勝てば仕事をする、「言ひ訣」が勝てば仕事をしない、といふ考へかたが(私の中に)ある。さういふステレオタイプな考へに(私が)毒されてゐるやうな氣がする。

実際には、「やりたくない言ひ訣」といふのは、後から後から無盡蔵に湧き出てくるものなので、もしも「意欲」と「言ひ訣」が戦つてゐるのだとしたら、「意欲」に勝ち目はない。頑張つて「言ひ訣」を片端から潰しても、事態はまつたく改善されない。

「言ひ訣」を潰さうとしてはいけない。それよりも「意欲」を鼓舞すべきだ。

……さうかあ、「意欲」かあ……(遠い目)。

正直者

神「きこりよ、あなたが落としたのは、金の斧ですか?、それとも銀の斧ですか?」
男「いえ、私が落としたのは、古ぼけた鐵の斧です」

神「正直なきこり! ではこれを授けませう」
男「こ、これは、……馬鹿?」

正直者が馬鹿を見る。

眠い

apkz2006-01-25


眠いので何も考へられない、といふ状態が、ここ數日、續いてゐる。考へられないので、仕事が長引き、今日も殘業、より一層寢不足に拍車がかかる。惡循環。「何とかしなければ」といふ最後の良心すらも、眠氣に押し流されさう……。

「注」と「註」

apkz2006-01-24


大西科学」の「注釈を考える」の「註7」より引用。

註7:注釈を一文字で表すのに「注」と「註」のどちらを使うか、これも悩んだ箇所です。辞書を引くとどちらでもよいらしく、ということはあとは私がどちらが好きか、という問題になるのですが、結局「専用工具が使える場合はそちらを使う」という原則にのっとり、註を使うことにしました。

さう言はれてみると、私も前から氣になつてゐたやうな氣がします。ちよつと調べてみる。

  • そもそもの話としては、「註」が正しいやうです。
    • 一字のみの「註」に限らず、「註釋(注釈)」、「註記(注記)」、「註文(注文)」などの熟語でも、本來は「註」が正しいやうです。
    • 「註」は「書き記す」とかの意味。「注」は「そそぐ」とかの意味(注意、注力など)。
  • 「註」の字が、當用漢字(常用漢字)に採用されなかつたために、本來「註」と書かねばならないところを、「注」で代用することが正式(?)に認められたやうです(「註」の利用が禁止された訣ではない)。
  • 一字のみのとき常用漢字にない字「註」を使ひ、「注釈」のときには常用漢字で書く、といふのは、微妙に統一感がないやうな氣がするけど、現代の國語教育の範圍では、「正しい」表記。

漢字の細かな使ひ分けに關しては、當用漢字(常用漢字)以降の辭書は、ほとんど、あてにならない。大抵の辭書で、「注釈」と「註釈」を同列に扱つてゐるけど、これが、當用漢字(常用漢字)のせゐで突然同列になつたものなのか、それとも當用漢字(常用漢字)以前から同義語として扱はれてゐたものなのか、明確に判別することができない。

なにかうまい方法はないかなあ……。