雑文について
若林さんの→YOMUKA日記 9 月 12 日で、雑文の定義について書かれてゐた。引用。
では私が読みたい雑文を定義してみよう。あえてモノサシは読み返さない。
- 著者の素性やサイトの他の記述とは無関係に楽しめる独立した記述である。
- 読者を楽しませようとしている。
- 困惑させても構わないが、起こらせたり悲しませたりはしてほしくない。
- 目的の為には小説、コラム、エッセイ、個条書きなど、文字の範疇であれば手段形式は問わない。
- 日記形式であることがネタの一部でない限り、日記は不可。
- しかし画像やレイアウトによる技は反則(5カウント以内の例外あり)
- 英語でも許すが、基本線は日本語で書かれていると嬉しい。
「5 カウント以内の例外」と云ふのが楽しい。
若林さんの定義に限らず、大抵の雑文の定義は、読み手側の視点で規定されてゐます。そこが、屁理屈太郎には不思議に思へてなりません。読み手の視点で規定しても、意味がないと思ひます。
読み手の視点の定義として典型的なのが、「読者を楽しませようとしてゐる」と云う項目です。この際なので言ひきつてしまふのですが、どんなひどいサイトでも、作者は、読者を楽しませてゐる「つもり」です。いはゆる「報告サイト」に出てくるやうな作者なら、これはもう間違ひありません。
読み手は「こりや日記だ」と思ふでせう。「ただの愚痴だ」「不平不満だ」「楽しませようと云ふ姿勢が感じられない」と思ふでせう。でもこれは読み手の視点です。ある意味で「客観的」な視点です。
書き手側は正反対のことを思つてゐるに違ひありません。「これは日記の形式をとつてゐるけど、中身はエッセイに値するぞ」と思つてゐるに違ひありません。「そこらへんの愚痴と違つて説得力あり」「不平不満だけどツボをついてゐる」と思つてゐるに違ひありません。「私は読者を楽しませてゐる『つもり』だ」と信じ込んでゐるのです。ある意味で「主観的」な視点です。「わがまま」と言つても良いかもしれません。
さうなのです。彼らは「主観的」なのです。彼らは主観的でわがままなので、読み手の立場になんて、立てないのです。客観的になれないのです。
どんなに完璧な雑文の定義を準備しても、彼らには通用しないのです。彼らは主観的でわがままなのです。主観的なので、どんな定義も自分流に曲解してしまひます。「私のは雑文だ」と解釈します。あるいは、最初から定義など読みません。読まないと決めたら、どんなに目立つところに書いてあつても決して読みません。なにしろ彼らは主観的でわがままなのです。
つまり、かういふことです。
「どんな雑文の定義も、それが読み手側の視点で規定される限りは、彼らには届かない」
で、問題はここからです。
彼らに届かないのは仕方がないことです。でも、彼ら以外には届きます。「読者の立場になれる人」「客観的な人」には、雑文の定義は、きちんと届きます。でも、ちよつと考へてみてください。「読者の立場になれる人」に、わざわざ、その雑文の定義を届ける必要があるのでせうか。
雑文の定義に書かれてゐることは、読者の立場になつて考へれば、みな当たり前のことばかりです。わざわざ明文化する意味があるのでせうか。声高に主張する必要があるのでせうか。
そんな当たり前のことを世間一般に公開するのは、なんと言ふか、その、恥づかしいと思ひます。あまり読者を楽しませてないと思ひます。
もつと言ふと、「雑文の定義」なんて、結局は雑文書きのための議論でしかありません。本当の読者にとつては、雑文の定義なんてどうでもよくて、単純に「面白けりや良し」なのです。雑文の定義を云々して楽しんでるのは「雑文書き」(およびその取り巻き)だけです。楽屋ネタです。楽屋ネタはヒソヒソ語られるから楽しいのであります。
そんな楽屋ネタを世間一般に公開するのは、なんと言ふか、その、野暮だと思ひます。あまり読者を楽しませてないと思ひます。
そんなわけで、私は、(読み手の視点の)雑文の定義を書く人のことが、よくわかりません。誰に何を伝へようとしてゐるのか理解できませんし、「読者を楽しませようとしてゐる」とも思へません。
……などと云ふ面倒な話はどうでもよくて、若林さんの雑文の定義の中の「5 カウント以内の例外」と云ふところがとても素敵でした。まる。